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Solo Exhibition

からだのあるわたしたち

We have our body (We are not ghost)

 

2018 03/2-14

at 新宿眼科画廊 Shinjuku Ophthalmologist(GANKA) Gallery

 幽霊と音楽会 (展示によせて)

 被災地に展覧会がやってきた。避難者たちの生活が、最も危機的な時期を乗り越えた頃のことだ。とはいえ、漂泊の暮らしは緊張のなかにある。展覧会は盛況だったが、その理由を「彼らは正面を与えられたかったのだ」と推察した人がいる。

そうか人には、体をどこに向けるべきなのか、正しい方向はどこなのか、それを規定されたい、そして多くの人々とその規範を共有したい。というような欲求が、どこかに備わっているのかもしれない。(現実との接続状態が不安定だと「正面」が定まらなくなるのかもしれない。)

 

 幽霊はどうやら、視界の隅にあらわれることが多い。視野の外ではないが、見えてはいない領域。注目してしまえば、そこは正面になってしまう。だから、そこをちゃんと見ることはできない。幽霊は常に、認識する現実の範囲をぎりぎり逸脱しきらない曖昧な領域を、活躍のメインステージにしている。

視界の隅に気持ちがむかうときは、きっとどこかで、正面にひろがる光景に居心地の悪さを感じている。信頼できない正面は、ただの馴染みのない、落ち着きを失わせる光景でしかない。正面から逃れたくて、意識だけ身体の中心から逸れていく。たとえばひどくショックな出来事は、自分をななめうしろから観察している視点で記憶されるという。たしかな現実から浮遊する態度が「幽霊」を見せる。

 

 ステージでは音楽が演奏されていて、客は体をステージに向けている。それは当たり前のこととも思われるが、ほんとうにそうなのだろうか。客は一丸となってステージを正面に据えていなければならないのだろうか。音楽には正面が必要なのだろうか。

 ステージを眺めているとき、どうかすると目の前の光景が信じられなくなっている。演奏家の運動と流れている音の繋がりが了解できなくなって、自分がなにをみているのか、どう振る舞えばいいのか不確かになり、自分自身が希薄になっている。

わたしは参加者と観察者へと分離し、乖離する。片方の自分は音楽を感じて、時間的な変化だけに規定されている場のなかにダイブする。そして観察者の自分は空間に取り残される。結果、現実との接続状態が悪くなる。正面を向く必要が生じる。

 あるいは逆に、演奏者側の視点にたってみる。演奏者の運動は、音を発生させることにむけられており、さらに音楽を表現することにもむけられている。指揮者は、演奏者が自分たちの表現を制御するための根拠となり、と同時に、単純に身体がその音楽を“奏でて”いる。オーケストラの演奏家たち全員が、音楽を表現する同一の身体を目で見ることで、彼らの音楽は組織される。もっと素朴な想像をすれば、聴衆がいるのに、体を彼らに向けずに歌うのは不自然だ。音楽を表現するためには、体をむける方向が規定されていなければならない。

 

幽霊と音楽いずれも、物理的な環境の提供する情報以上の意味を外界から汲み取り、引き出した結果うみだされる個人的な体験である。それは人間に備わっている仕組みによる、環境の価値への過大評価、認知のオーバードライブである。意識的に制御される営みではない。外界に対しての反応の一種であり、反省によって得られるものではない。

 

 絵を描くことは、ものをつくることともいえるが、ものをつくる仕事というよりも、意味を込める仕事といったほうがいい。意味の仕事は、意味を仄めかす道具さえ整っていればよく、その点からいえば意味の仕事は絵である必要はない。ものの仕事のように、器が器の形をしていないと器にならない、というのと大きく違う。外界を構成する物質・物体の環境的な価値、形状の価値をみつけていく行為ではない。カメラを回しても、文章を書いても、踊っても、叫んでも成り立つ。

 

意味について云々するためには、観察の視点がはっきりしていないといけない。方向、距離、角度、姿勢がなければ、視点は成立しない。対象と自分とがはっきり分離しており、自分が方向や角度を持っている、という条件があってはじめて、意味の話ができるようになる。そうやってはじめて、わたしたちは世界を語る方法を探せるようになる。語る方法があってはじめて、語れないもの、語りを破壊するものが登場できる。そのことにより語彙が豊富になる。ところで初期条件が成り立つ根拠は、わたしたちが正面のある身体をもっていることにある。だからおそらく、幽霊には幽霊がみえない。

 

 

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 生まれてそう時間が経っていないころに、乳児は、周囲の表面に自分の動きが跡を残していることを偶然発見する。2歳のころには、表面を擦ったり、削ったりしてそこに跡を残そうとしはじめる。後をつけるための道具を手に握りしめて、表面を熱心に引っかく。表面に残るのは手の動きの跡である。

 生まれてから、人はずっとインフォメーションを獲得するために、身体の種々の動きを試し、さらに新しい動きを工夫し続けている。表面に跡を付けはじめた2歳児も、自分の身体が周囲のインフォメーションと循環するように動く時に、何か新しい世界が見えはじめるという経験をすでに何度もしてきただろう。しかしその長い知覚のための身体の営みは、それまでは周りに何も残さずに、ただ進行して終了するだけだった。ところが手で筆記具を握り、何かの表面を擦ってみると、表面には手の動きがそのまま跡として残った。身体が知覚のためにしていることの一部が、表面の上に少しだが見える。乳児はそのことにおそらくは驚き、そして手の動きの痕跡を付けることをさらに徹底して試す。

(佐々木正人)

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